翻訳の世界でよく聞くスローガンにこういうのがあります。
Good, fast, cheap – choose two.
日本語にすると、
良い、速い、安い、のうち2つを選べ。
逆に言えば、3つの条件を全てかなえる事はできませんよ、「高品質・迅速・安価」な翻訳というのは実現不可能です、という意味です。翻訳の世界に限らず、いろいろなカスタムサービス業で使われている表現だと思います。
翻訳は、長年の研究にもかかわらず今のところ機械化できていません。
ネット上にある翻訳ソフトを試してみれば、その実用度は推して知るべし。特許や化学など一部の分野では機械翻訳の導入が進んでいるところもありますが、これは機械に翻訳させた文章をそのまま使うのが目的ではなく、どんな内容なのかをざっと見て関連性などの判断の材料に使うのが目的です。つまりチェックするだけの捨て資料。これによって特に必要になりそうな資料を絞り込み、それだけを翻訳者にきちんと翻訳させるというやり方でコストを抑えるわけです。
また、近年翻訳業界ではトラドスなどの翻訳支援ツールの使用が多くなっていますが、これは翻訳をしてくれるツールではなく、既存の翻訳をリサイクルするためのツールです。ということは、リサイクルされる対象となる既存の翻訳文が必要なわけで、これはもちろん翻訳者が作ります。最初の翻訳が粗悪だと、悪文が延々とリサイクルされてしまうので注意が必要。また、たとえば12単語くらいの長さの文があったとして、そのうち11単語までは同じということになれば、おそらく違う1語を差し替えれば残りはそのまま使えるはずですが、その1語を差し替える翻訳作業は翻訳者が行う必要があるし、また12語のうち6語しか同じじゃないという場合は、同じ6語についてもそのまま使えない可能性もあり、その判断をするのも翻訳者。つまり翻訳支援ツールは翻訳者を支援するツールであって、翻訳者の代わりにはならないのです。
というわけで、機械化によって高速化できる範囲が限られている翻訳というのは、基本的には人間の技能に頼るサービスですから、その技能のレベルが問題になります。そして、どの業界でも言えますが、技能の高い人は一般に料金も高い。これは、上手な人は需要が大きいので高い料金をチャージしても仕事が干上がらないということですが、一方では高い技能を身につけるためにかけてきた投資の回収という側面もあります。また、人間による作業だからどうしても一定時間にこなせる作業量が限られます。急ぎで仕上げろと言われた場合、選択肢は「きちんとした調査や訳文の見直しなどせず、やっつけ仕事で出してしまう」か、「睡眠時間や休日を返上して作業し、その分の追加料金(残業代や休日出勤手当みたいなもんです)を取る」のどちらかになります。前者の場合は質が落ち、後者なら価格が上がるというわけ。
なんでこんなことをうだうだ書いているのかというと、ちょっと前にやった仕事が「他の人のやった翻訳のやり直し」だったのです。
注文主は英国の会社でニュージーランドにも工場があり、そこから日本への輸出を始めたいということで、宣伝パンフの和訳をどこかに頼んだのだが、仕上がってみたらどうも出来が悪いようだ。来週日本に行く時に使うので急いで直してほしい、という話でした。和訳されたパンフレットを見ると、なるほどこれじゃ使えない。翻訳ソフトにかけて出力した日本語というわけではなさそうですが、明らかに日本人の手になる文ではない。どこかの日本語学部の学生にバイトとして翻訳させたのか?最近はインドや中国などで安価な日本語翻訳を請け負う翻訳会社も出てきているので、そういうところに頼んだのか?詮索はしませんでしたが、ともかく「修正」で済むレベルではありません。急ぎだということもあり、一から翻訳する場合と同じ料金で、原文から完全に翻訳しなおしました。ということは、安いところに最初の翻訳を頼んだ分だけ、その会社は損をしたわけですよね。