日本規格協会(JSA)が翻訳の国際規格ISO 17100普及に向けた取り組みの一環として、翻訳者登録制度を立ち上げたことが、日本の翻訳者の間で話題になっているようですね。
東京での説明会はまだこれからですが、大阪説明会に参加した方の感想やウェブ情報にもとづいて、ネットでも様々な意見が交わされているようです。
翻訳者登録制度に対する反響 – Togetterまとめ https://togetter.com/li/1102513
戸惑いの声や否定的な意見も多いようですが、英国の翻訳者の視点から、今の時点で思うことを書いておこうと思いました。
このウェブサイトでも書いているとおり、私は英国のInstitute of Translation and Interpreting (ITI)という団体の正会員(MITI)です。ITIは日本のJATと同じく翻訳者の団体ですが、JATと異なり会員になるためには一定の基準を満たす必要があり、MITIの場合は「大学卒+翻訳経験3年(フルタイム換算)+推薦状+ITIの課す翻訳試験合格」となっています。試験の審査基準はかなり厳しく、プロの仕事として通用するレベルに仕上がっていなければ合格できません。晴れて合格しても年会費を収めなければ会員資格をキープすることはできず、現在正会員の年会費は£227。EU離脱ショックのポンド安で価値が下がりましたが、それでも円に換算すると3万円を超えます。
これだけハードルが高く、コストも馬鹿にならない正会員資格をなぜキープするのか。無料の会誌やITIイベントの会員割引、保険(※1)の割引、無料の法律相談ホットラインといった会員特典もありますが、最大の魅力は「ハードルが高い分だけ能力の証明効果が大きい」という点です。
JSAの翻訳者登録制度は、ISO 17100規格で翻訳者の資格要件を具体的に規定していることに対応するためですが、ヨーロッパではこのISO 17100の下敷きになったEN 15038という欧州規格が2006年に施行されています(ISO 17100施行に伴い廃止)。EN 15038でもISO 17100と類似の翻訳者資格要件を規定していたのですが、MITI資格を取っていれば、この要件が自動的に満たされることになります。
ITIのウェブサイトには会員名簿を検索できる機能がありますが、EN規格認証を受けている翻訳会社にとって、ITI正会員名簿は、必要な翻訳者を探す際に手っ取り早いツールとして利用することができました。ですから、この名簿検索を通して受ける問い合わせは、品質優先・有資格者確保が必須という会社から来るものがほとんどで、その分まともな料金で受注できる確率が高いというメリットがあります。
英国も日本と同様翻訳の国家資格が存在せず、誰でも翻訳者の看板を掲げることができる国です。しかし、ITIの会員資格は国家資格ではないものの、国内の翻訳業界では広く認知されている(※2)ため、MITIという肩書が翻訳者としての差別化に役立っているわけです。
日本でもかつてJATで資格制度を導入すべきではといった議論がされたことがありますが、抵抗が強く実現しませんでした。JTFでは「ほんやく検定」を実施していますが、基礎レベルからある検定試験で、プロ資格試験ではありません。
JSAの制度では、登録条件の一環としてこのJTFほんやく検定を活用することになっており、いわばISO 17100の要件と組み合わせることでJTFほんやく検定(の上級)がプロ資格試験として機能するような枠組みとなっています。JISやISOを通じて産業界での知名度が高いJSAが運営するため、普及が進んだ場合は、公的資格に準じるものとして認識されるようになる可能性もあります。「登録翻訳者はISO要件を満たす日本のトップ翻訳者であり、登録翻訳者を使えば単価は高くても確実に品質を確保できる」という形で認知されるようになった場合は、翻訳者にとっては大きな価値が生まれます。実際に業界内でそういう方針で運用されるようになるかどうかが鍵であり、今後の展開を見守っていきたいと思います。
注:
※1: ITIでは会員に対し専門職賠償責任保険(professional liability insurance)加入を推奨していますが、この保険に割引価格で加入できます。
※2: ITIではJATと異なり、翻訳会社が法人会員として加入できます。ただし、法人会員主体で運営されているJTFと異なり、理事会は個人会員中心の構成で、法人会員代表理事は1人に限定されています。