機械翻訳は新しい技術ではありませんが、近年DeepLなどのニューラルネットワーク翻訳や、ChatGPTに代表される生成AIといった技術革新によって機械翻訳が急速に普及し、翻訳業界を大きく揺るがしています。
気軽にアクセスできる無料ツールで誰でも機械翻訳を使えるようになり、企業も時間節約・コスト削減対策として機械翻訳を活用する動きが進んでいる結果、翻訳会社もMTPE(機械翻訳ポストエディット、機械翻訳で生成した訳文を人間が確認・修正すること)サービスを提供するケースが増えています。ここ1~2年は私も、以前からお付き合いしている会社も含め、翻訳会社からMTPE案件に関する問い合わせを受けることが増えていますが、これまでのところすべてお断りしています。
こうしたトレンドを受けて、私が所属している業界団体、 英国翻訳通訳協会(ITI: Institute of Translation and Interpreting)は、今年6月に「 Slow Translation Manifesto 」と題する声明文書を発表しました。「スロートランスレーション」とは、「スローフード」や「スローツーリズム」といった運動からインスピレーションを得たコンセプト。熟練翻訳者による人力翻訳には機械翻訳からは得られない付加価値があり、誰でも手元のスマホで気軽に無料の機械翻訳ツールを利用できる時代においても、引き続き重要な役割を果たすと宣言するマニフェストです。
翻訳は、単に単語やフレーズを置き換えるだけの作業ではありません。翻訳者は、原文を読み込み、書かれている言葉だけではなく行間まで含めて筆者の意図を理解し、さらには文化的な背景の違いまで意識して、訳文の読者が同じ情報を得られるように最良の表現を選んで訳文を組み立てています。即時に訳文を表示する機械翻訳に比べて、確かに時間はかかります。しかしそれは、原文を理解するのではなく予測入力と同じようなプロセスでデータベースから当てはまりそうな表現を抽出して並べる機械翻訳とは、根本的に異なる作業です。このマニフェストは、私も含め多くのプロ翻訳者が日頃から感じていることをまとめ、スロートランスレーション運動 への参加・賛同を呼びかけています。