先月ダンディーで開催されたあるトークイベントに参加したのですが、講演者の1人が目を引きました。その人の役職名はFuture Generations Commissioner for Wales(ウェールズ未来世代コミッショナー)だったのです。
ウェールズって?
ウェールズは、英国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)を構成する4つの「国」(four nations)のひとつ。スコットランドと同様に立法権を持つ自治議会があり、自治議会の与党が自治政府を構成して政治を行っています。先日の「『脱成長』について考える3冊」と題したポストで、「ウェルビーイング経済政府」パートナーシップについて紹介しましたが、ウェールズもスコットランドと同じくこのパートナーシップの加盟国のひとつです。
人口はたった300万人余り(英国全体の約4.5%)という小国のウェールズは、紛争の傷跡を抱える北アイルランドや独立運動で揺れたスコットランドに比べて政治が安定的という印象もあり、英国の枠組みの中では注目されることが少ない存在。そのため、ウェールズに未来世代コミッショナーという役職が存在することも、私はこれまで知りませんでした。この役職は、Well-being of Future Generations Act(未来世代のウェルビーイング法、以下「未来世代法」)というウェールズ議会の制定法により創設されたものですが、この法律についても「そう言えばどこかで聞いたことがあったかな?」とは思ったものの、詳しい説明を見た記憶がありません。そこで気になったので調べてみました。
未来世代法
未来世代法の制定は2015年。それからもう9年も経っているというのは意外でした。施行は翌2016年4月で、初代コミッショナーもこの年に就任しています。2016年と言えば、EU離脱(ブレグジット)の是非を問う国民投票が実施された年。ニュースはその前年からもうこの報道で埋め尽くされていたので、ウェールズ自治議会が可決した奇抜な名前の法律のことなど、全国ニュースでもスコットランドのニュースでも話題にならなかったのは、無理もないかもしれません。
しかし、改めて見てみると、この法律は画期的です。タイトルの通り、その意図するところは、「これから生まれてくる未来世代のウェルビーイング」。ウェールズの公的機関に対し、全ての施策決定において未来世代の健康と幸福に配慮することを義務付けるという内容の法律なのです。
具体的には、以下の7項目のwell-being goals(ウェルビーイング目標)が定められており、公的機関はこれを念頭に置いて活動しなければなりません。
- A prosperous Wales(繁栄)
- A resilient Wales(レジリエンス)
- A healthier Wales(健康)
- A more equal Wales(平等)
- A Wales of cohesive communities(コミュニティの一体性)
- A Wales of vibrant culture and thriving Welsh language(独自文化と言語)
- A globally responsible Wales(世界に対する責任)
この法律にはsustainable developmentという言葉が何度も出てきます。しかしこの言葉が指しているのは、日本でもおなじみの「持続可能な開発目標(SDGs: Sustainable Development Goals)」ではなく、未来世代法の中で以下の通り定義されています。
In this Act, “sustainable development” means the process of improving the economic, social, environmental and cultural well-being of Wales by taking action, in accordance with the sustainable development principle, aimed at achieving the wellbeing goals.
(持続可能な開発とは、ウェルビーイング目標の達成を目指して、持続可能な開発原則に従って行動し、ウェールズの経済的、社会的、環境的、文化的ウェルビーイングを向上させるプロセスを意味する)
ここに出てくる「持続可能な開発原則」は、以下の5項目で構成されています。
- Long term(長期的視野に立つ)
- Prevention(問題の発生や悪化を防止する)
- Integration(縦割り施策ではなく、活動を水平統合)
- Collaboration(各機関の内外と協力する)
- Involvement(ステークホルダーを巻き込みながら推進)
この法律の策定に際しては、The Wales We Want(こんなウェールズにしたい)というプロジェクトで広く市民の声を集めたそうで、国民の望みを法律として施行するという形で進めたことでコンセンサスを得ることができたといいます。
未来世代コミッショナーの役割
この法律の施行に責任を持つのが未来世代コミッショナーで、政府とは独立した立場にあり、いわばこれから生まれてくる世代を代表して政府にもの申す代弁者です。政策決定権はありませんが、政府や公共機関が持続可能な開発原則に従ってウェルビーイング目標を達成できるよう、未来世代視点でアドバイスします。
未来世代法がウェールズの政策を変えた例として、交通政策があります。ウェールズ政府は、渋滞緩和のため借入金を使って新しい高速道路を建設することを公約していました。しかし、未来世代コミッショナーは、計画ルートがウェールズの生物多様性にとって重要な湿地帯を貫くことや、高速道路による炭素排出や大気汚染が気候や健康に与える影響、そして巨額な借入金の負担を考えれば未来世代のためにならないと強く反対。政府はこれを受け入れて高速道路建設計画をキャンセルし、代わりに公共交通機関の整備拡充や、自転車や歩行者に優しい交通政策の推進に路線を転換することにしたのです。
[下:初代未来世代コミッショナーのTEDトーク動画]ウェールズ語とウェルビーイング
スコットランド視点から見て興味深いのは、ウェルビーイング目標のひとつにウェールズ語の振興が盛り込まれていること。未来世代法の直接の影響なのかどうかは知りませんが、実際にウェールズではここ数年ウェールズ語の復権が進んでいて、自治開始当時にはWelsh Assemblyと呼ばれていたウェールズ議会も、2020年に正式にウェールズ語のSenedd(セネッズ)に改名されました。英語のParliamentに当たる言葉ですが、英語の文書でもSeneddをそのまま使うことになっています。
また、昨年は、ブレコン・ビーコンズ国立公園(Brecon Beacons National Park)がウェールズ語のBannau Brycheiniog National Parkに改名され、非ウェールズ語話者の間で「発音できない!」と話題になりました。カタカナにするならバンナイ・ブラヘイニョグという感じになるようです。しかし、改名は単に英語からウェールズ語に変えたというだけではなく、一見自然に見えても実は人の手によって荒らされた結果であるブレコン・ビーコンズの荒涼とした景観を、かつて存在した自然の姿に戻していこうという意志の象徴として、古いウェールズ語名に戻したのです。ウェールズ語の復興と環境的ウェルビーイングの向上が、こうして直接結びつけられているのは面白いなあと思いました。
[下:国立公園の改名に関するPR動画]