【連載 第1回】「RSI」を知っていますか?
コンピューターなしでは翻訳できない時代
ここ15年ほどのコンピューターの普及には目覚ましいものがあります。私は1990年に大学を卒業し、英国スコットランドの日系企業に翻訳者として就職したのですが、入社当時はWindowsも未導入のMS-DOS環境時代。インターネットや電子メールも普及する前のことで、コンピューターは所属セクション全体で2台を共用していました(そのうち1台はほとんど私専用でしたが)。
今では仕事にコンピューターを使わないという人は少数派ではないでしょうか。今回の連載を始めるにあたってSNS等でアンケートを募ったのですが、職種を問わず仕事で毎日4時間以上コンピューターを使っているという回答が9割近くを占めました。
コンピューターが仕事の必需品であるのは、もちろん翻訳も例外ではありません。翻訳の成果物である訳文は電子データの形で納品することがほとんどですから、翻訳作業にはコンピューターが欠かせません。
また、訳文の入力だけでなく、翻訳の過程で欠かせない辞書引きや調べ物などの作業、さらには客先との連絡や受注、納品まで、コンピューターなしで仕事するのはもはや不可能に近いかもしれません。アンケートでは、多い時にはコンピューター作業が1日20時間に達することもあるというコメントもありました。
そして仕事の合間には息抜きにTwitterやFacebookでつぶやいたり、面白そうなリンクをチェックしたり、納品後は気分転換にゲームをしたり…。仕事をしていない時でさえ、気がついたら1日中コンピューターを使い続けていたという経験があるのも、きっと私だけではないですよね。
痛みで翻訳の仕事が続けられなくなったら?
そんなコンピューター漬けの生活が、身体に影響しないはずはありません。慢性の肩こりや腰痛、疲れ目は翻訳者に共通の悩み。キーボードやマウスを使い続けていると、1日の終わりには手や腕がずっしりと疲れて痛むことがありませんか? 以前は一晩寝れば治まっていた痛みが、いつの間にか朝まで残るようになっていませんか? もっと症状が進んで仕事に差し支えるようになったらどうしようと、将来に不安を覚えている人もいるのではないでしょうか。私もそんな経験をした1人です。
私は翻訳の仕事に就いてから、右腕の慢性痛に悩まされるようになりました。鎮痛剤も超音波療法もステロイド注射も効果がなく、1995年には手術も受けましたが、数カ月後にはまた痛みが戻ってきてしまいました。どうすれば症状を軽減できるのか、情報を探し始めたのはその後のことです。数年後には左腕にも同じ症状が出て、もう翻訳の仕事は無理ではないかと真剣に悩んだ時期もありました。
幸いにも会社や同僚の理解と協力、そして技術の進歩のおかげで勤務を続けることができ、自分でもオンラインサポートグループから情報を集めながら対処策を学びました。2008年にはフリーランスになり、現在に至るまで翻訳者として痛みと付き合いながら仕事をしています。
1999年に英国翻訳通訳協会(ITI)への入会が認められ、その日本語分科会であるJ-Netに入ってからは、自分の経験から学んだ知識を他の翻訳者にも広めたいと、折に触れてワークショップで話をしたり、会誌に記事を書いたりしてきました。最初は正直あまり反応がなかったのですが、回を追うごとに関心の高まりが感じられ、2010年に日本翻訳者協会(JAT)が開催したProject Tokyoというイベントで講演したときにはびっくりするほどたくさんの参加者が集まり、大きな反響がありました。そんな経緯があって、この連載を始めさせていただくことになった次第です。
なお、私は医療や健康や人間工学の専門家ではなく、医学的な知識に基づいたアドバイスをすることはできません。代わりに、自分自身の体験やサポートグループなどで学んだ事をシェアしていこうと思っています。他の方の体験も積極的に紹介したいと思いますので、「私の場合はこうだった」「自分はこんな工夫をしている」といったコメントがあればぜひお寄せください。
RSI、頸肩腕障害/症候群、腱鞘炎
さて、この連載のタイトルを見て「RSIって何?」と首をひねった方も多いと思います。前述のアンケートでも、「RSIとは何か知っていますか?」という質問に対して、69%の回答者が「聞いたことがない」、23%が「聞いたことがあるが具体的な事は知らない」と答えていました。
RSIは”Repetitive Strain Injury”の略で、体の特定部分に繰り返し負荷がかかることで起きる、痛みや炎症などの諸症状を指す言葉です。医学的に認められた正式な疾患名ではないのですが、コンピューターの普及とともにメディアに登場し、今では英語圏で広く使われています。コンピューター作業に限らず反復動作や不自然な姿勢での長時間作業によって発生する症状で、例えばスーパーのレジ係や美容師、手話通訳者、楽器の演奏家などにも多いのですが、オフィスや家庭でコンピューターが普及するに従って症例が急増したため、コンピューターの弊害のひとつとして注目されるようになりました。
日本語ではRSIを反復性過労障害などと訳しますが、この用語はほとんど使われていません。英語圏でRSIと呼ばれる症状のことを、日本では頸肩腕障害・頸肩腕症候群と呼んでいます(この2つの違いについては次回説明します)。しかし、アンケートの結果を見る限りこちらもあまり広く知られている訳ではないようで、「聞いたことがない」が約66%、「聞いたことがあるが具体的な事は知らない」が約19%と、RSIに対する回答と比べても予想していたほど差はありませんでした。そのため、日本では使われていないRSIという用語を、この連載ではあえて使わせていただくことにしました。
「コンピューターの使い過ぎで生じた痛み」と言うと、まず頭に浮かぶのはRSIでも頸肩腕症候群でもなく腱鞘炎ではないでしょうか。アンケートでも圧倒的に認知度が高かったのがこの腱鞘炎で、「聞いたことがない」という人はほとんどいませんでした。私がコンピューターで腕を痛めたという話をすると、ほとんど間違いなく腱鞘炎になったのだと勘違いされてしまうのですが、実は私は今までのところ腱鞘炎の経験はありません。
では腱鞘炎とは何で、RSIとはどう違うのか?次回はそんな話をしたいと思います。