【連載 第11回】ハンズフリーでコンピューターを使う
すでにRSIを発症している時は?
コンピューター作業環境と使い方について詳しく見てきましたが、ここまでは腱鞘炎などの本格的なRSI発症には至っていないことを前提にしてきました。第4回「あなたの筋肉疲労度は、どのレベル?」で筋肉疲労の蓄積状態を3段階に分類しましたが、これまで説明してきた対策は、そのうち最初の2段階、つまりRSIの前触れ症状がまだ出ていない、あるいは前触れ症状はあるが本格的な痛みはないという人向けの、予防中心の内容でした。
しかし、すでに筋肉疲労の第3段階に入ってしまっていて、痛くてコンピューターを使うのが辛いというケースでは、これまで説明してきた対策方法はあまり役に立ちません。この段階では、痛みを緩和する治療を受けつつ、腕や手をしっかりと休めて、損傷した軟組織の修復を促すことが必要です。仕事で毎日何時間もキーボードやマウスを使うなどもっての外です。
そうは言っても長期休養は経済的に無理という場合も多いでしょう。私も13年前にこの状況に直面しました。右腕のテニス肘が再発し、痛い右腕をかばってできるだけ左手を使うようにしていたら、突然左腕にも同じ症状が出てしまったのです。30分程度のキーボード作業で痛みが我慢できないレベルに達し、車の運転も辛いし、普通に腕を振って歩いているだけで腕が痛み出すという状態で、仕事を続けるのは無理ではないかと目の前が真っ暗になりました。そんな私を救ってくれたのが、音声入力ソフトです。
音声入力ソフト「ドラゴンスピーチ」
音声入力ソフト(speech recognition software)は、 1990年にアメリカで商品化されました。初期の製品は単語をひとつずつ区切って発音しないと認識されなかったため使いにくく、ユーザーは障害者や、解剖医などに限られていました。しかし1990年代後半に、自然な連続発話を認識できるソフトDragon NaturallySpeaking(日本では「ドラゴンスピーチ※」という商品名で販売)が登場すると、もともと口述筆記の利用者が多い医療や法律の分野を中心に利用が広がり、技術向上が進みました。当時はちょうどコンピューターの普及でRSIが急増した時期でもあり、 RSI対策ソフトとしても一気に注目を浴びるようになりました。
私もRSIに長年悩まされ、いつかキーボード入力ができなくなったらどうしようとずっと不安を感じていたため、音声入力ソフトには早くから関心がありました。初めてドラゴンスピーチを試したのは2000年前後で、自宅用に購入して私用メールなどに使い始めました。当時の製品はVer. 3でしたが、認識精度も低く動作も遅くて、仕事にはとても使えないというのが正直な感想でした。しかし私にとって幸運だったのは、左腕の痛みが始まる半年ほど前に、ドラゴンスピーチのVer. 5が発売されたことでした。
このバージョンは認識精度が飛躍的に向上したとユーザーの間でも評判だったので、これなら使えるかもと、上司に相談して会社で購入してもらい、職場に試験導入してみたのです。上司がRSIについて非常に理解があり、また社屋に空きスペースがあって、同僚に迷惑をかけずに音声入力ソフトを使える環境を確保できたことも幸運でした。
※参考 ドラゴンスピーチ(外部サイトにリンクします)
音声入力を仕事に使ってみたら
意外だったのは、私用のメールを書く時より訳文を入力する時の方が、認識精度が高かったことでした。音声認識ソフトは文脈から判断して同音異義語の中から適切な単語を選ぶ設計になっているため、なるべく文節で区切らず一文を一気に発話した方が認識率が上がります。しかし私はもともと話すことが大の苦手で、長い文章を頭の中で組み立てながら話すことに慣れていません。自由作文では文章が口からすらすらと出てこなくて途切れがちになり、認識率が落ちてしまうのです。
翻訳の場合は目の前に原稿があり、それを見ながら訳文を組み立てていくので、私にとっては白紙の状態から考えるときに比べてまとまった文章を構成しやすく、認識率が上がったというわけです。また、私用メールではくだけた表現が多いので、訳文に使うフォーマルな文体の方が認識率が高いという面もあったようです。
家で試していたのはドラゴンスピーチ日本語版でしたが、当時の仕事は主に和文英訳だったので、会社では英語版を購入して英文を入力しました。ネイティブスピーカーが使う場合に比べて認識率は落ちますが、日本語訛りがある発音でも、ソフトのトレーニングをしっかりすれば仕事に支障がない程度の認識率は達成できます。
そんなわけで、使い始めてみると思いのほかスムーズに音声入力で仕事ができるようになりました。ドラゴンスピーチでは文章の入力だけでなくソフトの操作も音声コマンドで行うことができ、よく使う動作をマクロに記録して自動化し、作業スピードを上げることも可能です。マウスを使わずに音声でカーソルを動かすのは面倒ですが、MouseGridというアドオンを併用すると効率的に動かすことができます。こうしてほぼハンズフリーで翻訳の仕事を続けることができ、 4~5年ほどで痛みも徐々に治まっていきました。
慣れるまでには時間がかかる
日本語音声入力ソフトをデモなどで試してみた人は、ほとんどが「キーボード入力に比べてもたもたして苛立つ」「誤認識が多くて修正に時間がかかりすぎ、仕事にはとても使えない」といった印象を得るようです。私も最初は同じだったので、それは理解できます。
しかし、生まれて初めてキーボードを使った時のことを思い出してください。あるいはスマートフォンのフリック入力はどうでしょうか。長年使い続けて今では体が覚えている動作でも、最初は何度も間違えてイライラしませんでしたか?音声入力も同じで、最初は使いにくいと思っても、我慢して続けるにつれてだんだん慣れてきますし、ソフトが発音やボキャブラリーを学習するにつれ精度も上がります。
また、今は「キーボードの方がずっと速い」と思っていても、もし無理がたたってRSIを発症してしまったら、音声入力以外に選択肢がない、という状況に追い込まれる可能性もあるのです。
使い始めのハードルが高いのは事実なので、日頃から長時間コンピューターを使っていて腱鞘炎が不安だという人は、保険をかけるつもりで早めに音声入力ソフトを導入し、少しずつ試しながら徐々に慣れておくことをおすすめします。
ドラゴンスピーチを快適に使うポイント
以下に、音声入力ソフトを快適に使うためのヒントを挙げておきます。日本語音声入力ソフトにはドラゴンスピーチの他にAmiVoice(アミボイス※)という製品がありますが、私は使ったことがないので、以下はドラゴンスピーチに関するアドバイスになります。
※参考 AmiVoice(外部サイトにリンクします)
- 動作の重いソフトなので、コンピューターの動作速度やRAM容量が不足していると処理速度が大きく落ちます。また、重いソフトとの併用はなるべく避けたほうがよいでしょう。
- マイクやサウンドカードの性能は、認識率に大きく影響します。またノートPCではサウンドチップと冷却ファンの距離が近いため騒音に干渉され、認識率が下がる傾向があります。その場合はUSBマイクを使うと、マイク自体にサウンドプロセッサーが内蔵されているので、問題を回避することができます。
- マイクが口の真正面にあると、呼気がマイクに拾われ、文字として誤入力されてしまいます。口角のあたりにマイクが来るように位置を調節してください。
- 特にゆっくり発話する必要はありませんが、滑舌が悪いと誤認識が多くなります。丁寧な発音を心がけてください。
- 翻訳に使う場合は、過去の訳文をまとめて読み込ませておくと、ソフトのボキャブラリーに入っていない専門用語が追加され、また文体をソフトに学習させることができます。
- 前述したように、文脈をベースに判断して単語を選択するメカニズムになっているので、文節ごとに区切らずなるべく文単位で一気に入力する方が正確に認識されます。
- 誤認識を修正する際は、上書きするのではなく修正コマンドを使って修正してください。修正コマンドを使わないと修正内容が学習されず、認識率が上がりません。逆に発話した内容を変更する時には、修正コマンドを使わないでください。
- 何度修正しても学習されない単語は、助詞を加えた文節としてボキャブラリー登録してみましょう。
- 修正のタイミングについては、画面に表示された入力結果を目で追い、誤認識箇所はその都度すぐに修正していくという人と、最初は誤認識を無視して文書全体を入力し、後でまとめて修正をかけるという人がいます。一長一短なので、両方試してみて好みのスタイルを選ぶと良いでしょう。一気に全文入力する場合は、ボイスレコーダーに録音してからまとめてドラゴンスピーチに読み込ませることもできます。
- 音声入力による誤入力は、タイプミスと異なりスペルチェッカー等の校正ツールでは拾われません。また、慣れていないと見落としてしまう間違いも多いので、手入力した文の校正よりも丁寧にチェックするよう心がけてください。一見しただけではなんと言ったのか判断できないような誤認識箇所では、発話内容を再生して確認することができます。
- 喉にもRSIはあります! 長時間音声入力を続けると声帯に大きな負担がかかるので、キーボードやマウス入力と同様、定期的に休憩を入れてください。また、音声入力時は必ず手元に水を用意し、こまめに喉を潤わすよう心がけてください。
- 風邪を引いているときは鼻声になったり声がかれていつもと声が変わってしまうため、認識率が落ちます。そんな時は無理して使わず休みましょう。